だんご一家in沖縄 海軍司令部壕

 14, 2014 23:15
 唐突だけど、だんご一家は4月11日から13日まで二泊三日で沖縄に行ってきました^^

 だんごは初めての沖縄だったけど、この時期の沖縄は気候がいいね!
海開きは済んでいるから無理すれば泳げるし、気温は25度から30度。湿気が無く空気がカラっとしている^^

 そんなバカンス気分の一方で、第二次世界大戦沖縄戦の暗い過去の遺跡などを織り交ぜて珍道中は幕を開けました。

 阿蘇くまもと空港から定刻通り10時に飛行機は南の空へ舞い上がった。
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 離陸から20分。上昇飛行から高度1万4千キロの巡航高度に達した時、すでに飛行機は屋久島の横を抜けている最中だった。早いね!!

 11時半に那覇空港に無事降り立ち、送迎バスに乗りレンタカー乗り場に移動。ほとんどの観光客はそうするのだろう。道路も「わ」ナンバーばかりだ。
 レンタカー引渡し場には多くのコンパクトカーが止まっていた。だんご的にはスイフト>フィット>デミオ>ノート>ヴィッツで、自分の車は何か?とわくわくしていたら・・・下から2番目のノートでした><;
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 まずはカミさんお勧めの「海軍司令部壕」へ向かった。そこに行くまでだんごは何の事か解らなかったのは内緒で^^;
とにかく日清・日露戦争以降の歴史はホント勉強不足で、沖縄内陸戦で何があったのか解らないままの歴史探索です。
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 ウィキペディアより
海軍司令部壕は、沖縄戦において大日本帝国海軍の司令部として使用された防空壕である。
司令部壕は1944年8月10日に着工されたが、本格的な工事は10月10日の十・十空襲以降に始められ同年12月に完成した。海軍第226設営隊(山根部隊)の約3000名が設営にあたり、ほとんどの工事はつるはしなどを用いた手作業で行われた。小禄地区周辺にはこの他にも多数の防空壕が建設され多くの住民が動員されたが、海軍司令部壕は最高軍事機密であったため民間人は近付くことも許されず工事は軍隊の手のみによって行われている。
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枝分かれした全長約450mの坑道といくつかの部屋からなり、砲撃に耐えられるよう重要な部屋はコンクリートや漆喰で補強されている。坑道の壁には建設時につるはしで削っていった跡が残されている。
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幕僚室10m² の広さがあり幕僚が手榴弾で自決した痕跡が残されている。
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下士官室、兵員室は壕内に2ヶ所、それぞれ13m² の広さがあり兵士が休息するために使われた。戦闘が激化した時期には壕内に4,000名もの兵が集まり坑道も事実上の兵員室となっていた。このような中で多くの兵士は立ったまま睡眠を取る有様であった。

1945年(昭和20年)1月20日、佐世保鎮守府から大田実海軍中将が沖縄方面根拠地隊司令官として赴任し現地の指揮を執ることになった。
アメリカ軍による本格的な攻撃は3月23日頃から始まった。3月31日午前8時には那覇市の北西沖約10キロメートルに浮かぶ神山島に上陸し、4月に入ると島に設置された砲台や海上艦船からの攻撃も始まった。
5月半ばになるとアメリカ軍は那覇市街地に迫り、首里付近に集結していた陸軍は5月22日に沖縄本島南端部への撤退を決め、小禄司令部壕を守っていた海軍もこれに合流するため武器の一部を廃棄して5月26日から移動を開始したが、命令の行き違いがあり5月28日に小禄司令部壕へ引き返している。6月に入ってアメリカ軍の攻撃が激しくなったため陸軍との合流は断念せざるを得なくなり、海軍は司令部壕付近に孤立する状況となった。

6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕のある那覇市南西部を包囲した。大田司令官は6日夕方に辞世の句とともに訣別の電報を打って自らの覚悟を伝え、同日夜には「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報を打って後事を託している。
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沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。


包囲が次第に狭められていく中で壕内に重火器はほとんど残っておらず、歩兵による突撃で応戦するのが精一杯の状況となった。
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ここから突撃して行ったと言う

11日午前7時、司令部壕に集中攻撃が加えられた。同日夜には司令部壕からの最後の報告として海軍根拠地隊が玉砕したとの電報が発せられている。13日午前1時、大田司令官は自決を遂げ小禄地区における組織的な戦闘は終結した。

1953年(昭和28年)3月、戦争で生き残った元海軍部隊隊員が司令部壕跡を訪れた時、入口は崩壊し坑内には泥水が溜まっている有様であった。壕内からは大田司令官をはじめとして800名以上の遺骨が収集された。1958年(昭和33年)には更に1500名以上の遺骨が収集され、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立された。

 元海上自衛隊で佐世保に居たカミさんは大田実司令官の電報を細かくだんごに話してくれた。佐世保繋がりで感慨深いものがあったのだろうか・・・。

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 戦没者の約半数10万人が沖縄県民だったと言う。戦略的に重要な位置だった事が沖縄の不幸なのだろうか・・・

 沖縄の最初の訪問地でいきなり戦争の暗い影を目の当たりにして何も知らずにいた自分がとても滑稽に思えてしまった。そう、もう一人滑稽者が居て、最初から最後まで寝て過ごしたSouです><

 子供だから仕方ないね^^それでゆっくり見学する事が出来たのだった!

つづく
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COMMENT 2

Tue
2014.04.15
19:45

TA01W #XajaWc7E

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沖縄までひとっ飛びですか、うらやまし〜。
こういった不幸のあった場所には、念が強すぎて近寄れずで・・・^^;
こういったことがあり、今の生活がある。
尊い御霊に感謝。

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Tue
2014.04.15
22:42

だんご班長 #-

URL

TA01Wさん

初沖縄!欲張って見所を満喫してきました。
ここではもっと悲惨な写真など掲示されていました。
まともに凝視する事もためらわれるような惨状に言葉もありません。
月並みな言葉ですが、二度とこんな事が起きて欲しく無いですね・・・。

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