プロローグ宇土半島最高峰「大岳」を行く

 20, 2013 00:47
 晴天の休日。だんごの郷里宇土の最高峰「大岳」を歩いた。自分の足元は見えないもので、自宅から程近いのこの山に初めて訪れたのだ。

 しかも知らなかった事が、熊本「神風連の乱」で破れ敗走した志士6名がここで自刀したと言う碑が残されていたのだ。

神風連(敬神党)とは、「神の教え(神道)をもって国政人事を行っていこう」という事で、欧米の思想や文化を取り入れ二千年来続く日本国風の変化を嫌った。

 一党は皆常に身心を清らかにし、鳥獣肉断ち、酒菓を断ち、首領太田黒伴雄に至っては、さらに神前にて七日間の断食の後百日間の火の物断ちをし、国の難事を*宇気比で審判した。
*宇気比は、日本太古の誓約祈祷である

 欧化政策、封建制の解体、不平等条約締結などにより、新政府に不満を持つ士族たちが各地で現われ始める。敬神党は断髪令、キリスト教黙認、外国人との結婚許可など新政府が押し進める文明開化の世を憂っていた。

 政府は「佐賀の乱」勃発後、主要地区に鎮台を置くなどして全国に散らばる反政府勢力への警戒を強めた。大きな脅威となりそうな反政府組織を熊本県令は懐柔にかかり敬神党参謀を神官として採用した。敬神を掲げる彼らがこれを辞するわけにはいかず、それぞれ熊本の神社に神官として配属となる。
 神官採用の試験が行われ、ある設問の解答で「国家正しき道へ進めば、元寇の時と同じく神風が吹き夷荻を誅すること間違いなし」と全員同じ内容の答えが書かれていた。試験官は驚き、「これはまるで神風連だ」と言いったことから敬神党は“神風連”と呼ばれるようになった。

 明治政府はついに樺太千島交換条約を締結。日本の国土をロシアに完全譲渡する。また明治九年、廃刀令と断髪令が出ると、街はまるで西洋の植民地にでもなったかのような断髪丸腰の人間で溢れた。このような醜態を神風連は黙って見てはおれず、新開大神宮に集まり挙兵可否の宇気比を乞うと「可」と出た。挙兵の決意だった。

 同年10月24日夜、太田黒伴雄や加屋霽堅らに率いられた神風連170人は藤崎八幡宮の裏手に集まった。日本古来よりの刀・槍で西洋式の銃器を取り揃えた鎮西鎮台軍に戦いを仕掛ける彼らに勝利への打算は全く無く、国のため神の名の下に立ち上がることのみに意義をなしていた。太田黒は「これより先は神のみぞ知る。皆一身を献げ奮戦しよう。」と辞を述べ、隊を分けて出陣する。

 本隊は鎮台司令長官種田政明や県令安岡良亮らを襲撃して、多くの官憲を殺傷した。また、別隊は二の丸の兵営を襲い、これを全焼させ鎮台側を大混乱に陥れたが、歩兵第13連隊長が、要人襲撃の難を逃れ戦場に現れると、鎮台兵は落ち着きを取り戻し反撃を始めた。

 かたや神風連は太田黒や加屋等が戦死して、指揮系統が乱れ、25日早朝には敗走。最終的には戦死28人、自刃86人を出して惨敗。残った者もほとんどが捕らえた。この乱はあらかじめ各地の同士に伝えられており、10月27日には秋月の乱、同28日には萩の乱が勃発した。

 神風連の乱は、一日で鎮圧され生き残った者も自害し、世間から暴挙と呼ばれざるを得ない形となってしまった。しかし彼らは最初から勝つことを目的としていない。彼らは政府の弱腰交渉と見境無しに流れ込んでき急速にわが国全土へ浸透していく西洋文明、大きく転回しようとしている時勢に、不動の精神たる何かを刻み付けて置く事こそが彼らの本意であり本望であったのだろう。
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写真中央が大岳

※遺族らの懇願により、大正には烈士らの忠魂が認められ、賊名除かれ太田黒、加屋領袖には贈位もなされた。同時に「神風連の乱」は、「神風連の変」と改められた。
※映画「ラストサムライ」で物語のもう一人の主人公である不平士族の領袖である勝元(役:渡辺謙)は『神風連の変』の領袖である太田黒伴雄がモデルとなっていると言われる。
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